バトン | 海の素(大久保海太)

バトン

仕事を終えて、ああ疲れたと渋谷駅を歩いていた。

ふぅと息を吐きながら岡本太郎の前を通り過ぎた辺りに、どう考えても見たことある人が、明らかにオロオロした様子でガラケーをいじっていた。

母だった。


なにしてんのよと声をかけたら、相当ビックリして なんでここにいんの?!と。
こっちのセリフなんだけど、いや仕事の帰りだよと。
今、弾(兄)と待ち合わせてんのよ!おばあちゃんが危篤なの!と。
いやいや、俺にも連絡しろやいと思いつつ、兄を待ったのだった。
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うちのおばあちゃんはもう93歳で、7年か8年前にじいちゃんが亡くなってから、津田沼に一人で住んでいた。

心も体も丈夫な人で、デイケアにお世話になることもなく、毎日30分歩いてマックスバリューに買い物に行き、30分かけて帰ってくることを生きがいにしており、週に一度か二度、母を始めとした子供たちが見に行く以外、誰にも迷惑をかけず一人で静かに暮らしていた。


足踏みミシンでせっせと余った布を縫い付けては、巾着やら短パンやらを作って送ってくれた。(夏の寝巻きは今でもそれをだったりする)

そのくせ昔から、面倒なことや煩わしいのが大嫌い。
人が来るのはいいけど、もてなすのは面倒くさいムードを隠さない。

自分一人でご飯を作る時は、適当な野菜と米と魚肉ソーセージを手鍋で雑炊にするという、「栄養満点 総合飼料」という名の、全然食べたくない料理を毎日食べていて、それが一番自分に合っていると分かっている感じだった。

小学校の頃に泊まりに行くと、かわいい孫が来てるんだから腕によりかけそうなもんだけど、昼ご飯は「チャルメラ食べる?」としょっちゅう聞かれた。(美味しかったけど茹ですぎだった)

おじいちゃんは自動車整備工だったこともあり、何もかもを手作りしちゃう人で、家の中は謎の工具や何に使うのかわからない発明品であふれていた。

戦争を生き抜いた二人だからか、とにかく無駄が嫌いで、何でも作れるものは自分で作るという精神が当たり前だったんだと思う。

うちの母も「作る」ということが身近だったと思われ、紙粘土で雛人形を作ったり、額縁の中に独自の世界を創作して壁に飾ったりしていた。

書道家である父と出会って結婚した時も、結婚式は全部手作りでやったらしい。
※だもんで、僕にも、手作りするという精神が当たり前のように流れ込んでると感じている。

そういうおばあちゃんが本当に大好きだった。
血を受け継いで嬉しいと感じる人だった。


去年の10月くらいに娘(おばあちゃんにとってはひ孫)を見せに会いに行った時は、「ハハハ!」と笑ってるくらいで、この写真はその時に撮った。

ところがこの数日後、おばあちゃん自身も叔父さんも「何かがおかしい」と感じて病院に検査に行き、そこで脳梗塞だと判明したのだった。

そのまま入院となり、以降何度か会いに行こうとしたけど、病院の都合や子供体調のタイミングが合わず、なかなか行けずにいた。

気にはなりながらも、忙殺される自分に流されもして、結果的に冒頭の渋谷で母に偶然会うことになるまで、そのままだった。

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話は戻っていよいよ今夜が山という状況と知り、合流した兄とともに千葉に向かうことになった。

三人で電車を乗りついで行くよりは車の方が早いだろうと一度うちに電車移動している時に、叔父さんから母に連絡が入って、おばあちゃんが息を引き取ったことを知った。

なんだか言葉が出なかった。
不思議と涙も悲しみもなくて、ふわっとした気持ちだった。
母にはお疲れ様と言ったけど、それもなんだか本当じゃないみたいで、黙ってうちまで帰ってきた。

車に乗り換えて、亡くなった病院まで向かう途中も悲しみが少なくて、おばあちゃん頑張ったねとか、お疲れ様とか、これからどうすんのとか、冷静な道中だった。

セブンイレブンでおにぎりを買って腹ごしらえした時に叔父さんから連絡が入って病院にいてもしょうがないから、これからおばあちゃんの家に今から運ぶと。
じゃあ俺たちもと、病院からばあちゃん家に行く先を変えた。


結局渋谷で母と遭遇してから3時間後くらいに、おばあちゃん家にたどり着いた。

そして、ここ数年おばあちゃんが一人で暮らしていた家に足を踏み入れた途端に涙が溢れてきた。

部屋に入るとおばあちゃんは、昔おじいちゃんが寝ていた手作りの目覚まし時計がくっついたベッドで寝ていて、見たことないくらいシワシワだった。

おでこもほっぺたもは冷たくって、笑顔のイメージばっかりだったからまた悲しくなって、涙が止まらなくなった。

家の中は何も変わらないのに、やっぱり明らかにおばあちゃんが生きている時と違う思った。

家っていうのきっと、住んでいる人がいるから家なのであって、そうじゃないなら、ただの建物になるんだろう。

そして、ひとしきりしてから、お茶をのんでみんなで懐かしい写真を見たり、昔話をして笑ったりした。
ほんの数分前のことなのに、いい思い出みたいな気持ちだった。


自分が好きなことを見つけて、人に迷惑を掛けないように生活して
子供を作って健康に育てて、無駄はなく負担も残さず
残る人の悲しみが最小限になるように 覚悟できるくらいゆっくりと、亡くなった。

おばあちゃんはそんなこと考えてないかもしれないけど、結果的にそうなったのは運なんかじゃないと思う。

言葉はおかしいが、満を持して亡くなったような、見事な人生だと思った。
渋谷でうちの家族がバッタリ会うのも偶然なわけがなくて、そういう風にしてくれたんだと感じた。

ハンパじゃねーぜ。おばあちゃん。
すげーかっこいいぜ。
とんでもない見本を見せられてしまった。

自分が親になった今、子供や孫にかっこいいと思われる人生を送りたいと思った。


バトンを受けとったんだと思う。
ハードルは高いが、かっこよく走りきらねーと。
そんな出来事だった。






心よりご冥福をお祈りしながら、ちゃんと生活していきます。
あちらでも、お元気で。

海太